「うぐぁ…」
アケミに包丁が刺さっている。目の前にあるトマトをスパッと切ろうとしたらイージーミスで自分を切ってしまったのだ。
このご時世に切腹なんて片腹痛い。いや。刺した腹の真ん中が痛い。今私うまい事考えたわ!とニヤけるが、激痛で顔がゆがんでしまう。
とりあえず救急車を呼び、一命を取りとめ、数週間後無事に退院した。
アケミは36歳の学生である。要するに大仁田みたいなものである。久しぶりに登校すると、アケミの友達の陣子が傍へかけよってきた。
「アケミさん刺されたらしいですね。男女関係のもつれですか? アケミさん位の年になるとそういうのあるんですね。こえー」
といってガタガタ震えている。
「違うのよ陣子さん。ウッカリなの。私はウッカリさんなの。」とあわててフォローすると
「アケミさん記念に帰りプリクラとりましょうよ」と言ってどこかに行ってしまった。
アケミはこの年で学校に入るだけはあり、真面目に勉強したいので、授業中はしっかり話を聞いてノートを取っている。今日もカリカリと鉛筆と色ペンで綺麗にノートを書いていた。
授業が終わって一息ついていると、机の上に揚げ物がトンと置かれた。エビフライほか各種だ。
「!?」
アケミは驚いて顔を上げると、山林くんだった。
山林くんは多分22歳位の学生で、アケミが密かに素敵な好青年と思っていた人だった。
「揚げ物をあげるのでノートを見せてくれませんか?」
アケミは照れてダッシュで逃げた。すると山林くんが揚げ物を両手で持ってダッシュで追いかけてきた。
「アケミさん! 一口食べれば納得しますから!」
アケミは走った。すると陸上部の山林はもっと走った。そして回り込まれてしまった。
「ぜぇ、ぜぇ、アケミさん、疲れた時には揚げ物です」
アケミは山林の心遣いにまた少しキュンとしたので観念し、揚げ物を頂く事にした。
「廊下じゃ何ですから、音楽室にでも行きましょう。バッハの肖像画も見たいし」と山林が言い、アケミの手を引いた。片手に器用に揚げ物の皿を持つ。アケミはドキっとし、何も言わずについていった。
誰もいない音楽室に入ると、向かい合わせに机に座った。「さあ、食べて下さい。」と山林はポケットから箸と塩のビンを出した。
「塩で食べるのね。」アケミは天つゆ派なので少しだけ残念な気持ちになった。
「塩で食べて欲しいんです。」真剣な山林の目がアケミを貫く。
アケミは塩で頂く事にした。
「頂きます。」アケミは手を合わせ少し塩を振ると、箸で海老フライをヒョイと持ち上げ
、顔の前まで持ってきた。
「サクッ」
静かな音楽室を歯切れのいい天ぷら音が切り裂いた。
「こ、これは…」
山林が興奮したような、緊張したような面持ちでアケミを見ている。
アケミはグランドピアノに向かって走った。
「ガアァァン」音楽室には明美のかき鳴らすピアノの音が響き渡った。
「アケミさん!?」山林が驚き戸惑うが、アケミの演奏はとまらない。
しばらくするとメロディは優美なものに変わり、アケミが歌いだした。
「サブウェイ 地下鉄の ことよ
あれに 乗るとね 私はね
閉塞感を 味わうの
だけども 今日はね 違うわ
あらわれたのよ 目の前に
琥珀 色した 天ぷらが
私 最初は 迷ったの
だけどね すべては 変わった
衣 サックリしていてその上ふんわりで
海老は ぷりぷりとってもジューシーよ
私 その時 思ったの
若き 頃の わたし の ようね…
涙 無くして 頂けぬ
淡き あの日の きらめきよ
あふれる 想いを 今ここで
貴方に 伝える 好きよと…」
アケミは思いの丈をぶつけると、倒れた。
気づくとアケミはベッドの上だった。病院に運ばれていたのだ。だが歯医者だった。
山林君が間違えて歯医者につれてきてしまったのだ。明美は虫歯があったのでそのまま治療されてしまった。
明美を治療している先生は、歯の隙間に挟まった天ぷらの衣を見て、これは…と思った。
そして治療が終わると、アケミにそっと耳打ちした。
「お代はいらぬからあの奇跡の衣の製造方法を教えてくれないかね?」
アケミは戸惑った。
奇跡の衣は山林君が私にくれたもの。製造方法を渡す事は二人の秘密の共有が出来なくなってしまう。というか製造方法は知らない。
「…いえ、それは出来ません。お代はきちんと払いますから」と言い、初診料込みの3000円を支払い、歯医者を後にした。
そういえば山林君がいない。どこへ行ったのだろう…
アケミは七三通りを歩いていた。歯が治って爽快なので喫茶「ぼたんの華」に向かおうとしているのだ。
ぼたんの華で山林くんにお礼の手紙をしたためようと思い、コンビニで便箋セットを買った。
そしてぼたんの華の前に着くと、ドアがひとりでに開いた。
そしてそのままアケミの顔にぶつかり、アケミは鼻血を流した。
ドアの向こうの青年があわてて「申し訳ありません素敵な熟女さん! 大丈夫ですか」とハンケチを差し出した。
戦隊ものの青いハンケチだった。
「良いのよ、青いハンケチが紅く染まってしまうわ、この青空カラオケのようなハンケチを血濡れた午後にはしたくないわ」とアケミは断った。
すると青年は「そうはいきません熟女さん! あ、お名前を…」
「アケミと言うわ」アケミは血を流しながら笑顔で答えた。
「僕はいもへいと言います。芋に平と書きます。大地に根付くよう、父が付けてくれた名前です。」と言う。
ようやく落ち着いてきたアケミは芋平の顔を見た。
ニジマスのようなさわやかな顔であった。
アケミはこのような青年の前でたらたらと血を流す自分がなんだか恥ずかしくなり、逃げた。
すると芋平が追ってきた。
「待ってください! アケミさん! ハンケチを受け取って下さい!」
アケミは逃げながら息を切らして答えた。
「無理よ芋平さん! 戦隊ものはレッドばかりではないのよ!」
芋平も懸命に走りながら言った。「黄色やグリーンの重要さも知っているつもりです! 心にあればそれでいいんだ! ハンケチを使ってよ!」
アケミは引くに引けなくなり、更にダッシュすると、道の角で人にドシンとぶつかってしまった。
「あうつっ! ご、ごめんなさい!」
顔を上げると、山林であった。
「いつぅ…」
山林がいつぅとなっている。アケミはびっくりし、「山林君! 大丈夫!?」と言って顔を近づけると、頭から少し血が出ていた。
「山林君! ハンケチで血を…」アケミはそこまで言うと、自分がハンケチを持っていない事に気が付いた。
芋平が後ろから出てきた。
「このハンケチを使って下さい。」
戦隊物の青いハンケチを差し出した。
「ありがとうございます。このような綺麗なハンケチを使わせていただき感無量です。」
山林は笑顔でそういうとハンケチを使った。
青いハンケチに血が滲んでゆく。
芋平の顔が歪む。
「貴方…山林さん。」
「なんでしょう? えっと…」
「…芋平です。」
「あ、芋平さん。」
「お怪我、早くなおるといいですね。それじゃ僕はこれで…」
芋平は背中を向けて去ろうとした。
「あ、待ってください! 連絡先を教えて下さい。ハンケチをお返しして、お礼をしたいので。」
引き留める山林に対し芋平は魚の目で「それはあげます。アケミさんと仲良く使って下さい」
と言って帰っていった。
アケミはキョトンとして「芋平さん…」と小さな声を吐き出す事しか出来なかった。
その後帰るために山林と二人で夕暮れの坂道を無言で歩く事になった。
先に口を開いたのは山林であった。
「アケミさん大丈夫なのですか? 倒れましたけど。天ぷらがお口に合わなかったでしょうか。」
「とんでもないわ! あんなに美味しい天ぷらは食べたことがありません。山林君、ありがとう。山林君こそ大丈夫なの?」
「大丈夫です。これくらいへっちゃらですよ。それより…アケミさん。」
「なあに?」
山林が真剣な面持ちになる。「倒れる前に歌っていた歌の事だけど…」
アケミは色々思いだし、恥ずかしさで顔面蒼白になり、逃げた。
アケミはタクシーを拾い、時速60キロで逃げたため、さすがの山林も追い付けなかった。
アケミは適当な所でタクシーを止め、降りると恥ずかしさのあまり顔を手で多いながら更に走った。
ドシン!
「いつぅ」
誰かにぶつかり、今度はアケミがいつぅとなった。芋平だった。
「アケミさん! 大丈夫ですか! お顔を隠してどうなすったんですか!」
芋平もぶつかってこけていたが、アケミを真っ先に心配していた。
「あら芋平さん! ごめんなさい。私ったら。お怪我はありませんか?」
「僕は大丈夫です。アケミさんは」
「私も平気よ。少しいつぅとなっただけだわ。それより先程は何か様子がおかしかったけれど。」
芋平がギクとなり、立ち上がり後ろを向いた。そして絞り出すようにこう言った。
「ハンケチは…アケミさんに使って欲しかったんです。」
アケミはドキンとした。
「山林青年のために用意したのではない! アケミさん、あなたのためだ!」
アケミは動揺し、また逃げようとして転倒し断念した。
「アケミさん逃げないで! 僕の事が嫌いですか!?」
「嫌いもなにも、まだ出会ったばかりでなにもわからないわ!」
アケミは叫んだ。
「出会ったばかりでも僕にはアケミさんの羊羮のような魅力がわかりますよ!」
「まあ!」
羊羮だなんて言い過ぎよ、何がわかるというの、何がわかるというの、と思いながら何度も走ったりこけたりしたアケミの術後の傷は徐々に開いていった。
「アケミさん、おなかから何か出ています」
お腹の傷から黄金の天ぷらが出てきた。
「これが私の気持ちだわ。私は天ぷらが好きなのよ。天ぷらがあればそれでいいわ。芋平さん、ごめんなさい。天ぷらと暮らすわ。」
そこへ随分走った様子の山林が現れた。
「アケミさん! 音楽室で告白してくれたよね? 僕もアケミさんの事…」
すると天ぷらがキラキラと輝き、巨大化し、手足が生え、アケミをエスコートした。
「山林や芋平より天ぷらである僕と一緒にサクサク暮らしませんか?」
アケミは「山林くんに惹かれていた理由は、どことなく漂う天ぷら、あなたのスメルのせいだったと気づいたの。私は天ぷらしか愛せないわ。共に揚がるその日まで…」
と言うと、天ぷらと手を繋ぎそのまま地平の彼方へ消えていった。
残された芋平と山林はしばし顔を見合わせ苦笑しあうと、なにくそあんなアケミなぞ。自分達も天ぷらのように魅力的な青年を目指してカラリと揚がり続けるぞと笑いながら会話し、会話し続け、気づくと二人合わせてマッシュポテトになっていて、そこには行列が出来たのであった。
おわり