例えばこのレバ刺しを食べたとしたら、私はレバ刺しが好きではないので気分が悪くなるかもしれない。
ではレバ刺しを食べるのはやめよう。
このドライマンゴーというのはどうだ? 最近時々見かけるが、味の想像がつかない。食べたらすごく変な味かもしれない。食後につまんでみたら食事自体が変な味だった錯覚に陥って、その後一日気分が優れないかもしれない。
これもやめておこう。
寒い。スーパーの鮮魚コーナーはどうしてこんなに寒いんだ。私は冷え性なので、冷えてしまうじゃないか。だがもう少しこの魚を見たい。吟味したいのだ。とはいえ自分は魚の目利きが出来るかといえば答えは「できぬ」だ。しかしここで鮮魚を真剣に眺めていたら、いかにも魚の調理を上手にこなす男性のようで、女性からの熱い視線を浴びるのではないのか。だからもう少し見ていたい。だが、寒い。
薄着をしてきてしまったのだ。もしも今日日中の気温が昨日より上がったとしたら、と家で考えたせいだ。もしも下がったら、も考えたのだが、基本的に厚着は好きではない。人間ははだかんぼうでいるべきなのだ。そうしたらあの人はいつもロックバンドのTシャツを着ている、あれ以外着る物が無いのかだなんて思われないじゃないか。
思われない方がいいではないか。だがしかし長袖はパンダの柄のトレーナーしか無いのだ。だから仕方なく薄着をしてきた。そしてこの仕打ち。寒いというこの仕打ち。確かに周りを見てみると、全員長袖だ。しかしいいのか?そこの40代後半風の太めな男性の薄いピンクのスウェットは、醤油の染みもついているし、お世辞にも格好いいとは言えないではないか。私はお世辞が上手だ。お世辞をいったとしたら女性に喜ばれる可能性があるからだ。そんな私がお世辞にも格好いいとは言えない醤油の染みのピンクのスウェットをスーパーに着てくるとはどういう了見だ?それともスーパーマーケットで女性に良く思われようとするのがそもそも間違っているのか?しかし私がデパ地下など行けるはずがないではないか。
デパ地価にパンダの長袖やいつも来ているくたくたのバンドTを着ていったらどうなると思うのだ。舌の肥えたセレブ層にバッシングされるのは間違いないではないか。他人はそんなに自分の事を気にしていないという事をよく言う人がいる。だが自分は自分が一番気にしているのだから、他人が塵程も気にかけていなくても、自分は気になって気になって仕方が無いのだから、こんなに気になる自分を他人が全く気にしないなんてどこにそんな証拠があるのだ。
それに趣味は人間観察と抜かす輩もおるではないか。人間観察とは何なのだ。そのアレは大体にして負の要素ではないか。「あの人は可愛い、あの人は素敵だ」なんていう観察を延々している人が「僕、私の趣味は人間観察です」なんて言うはずもない。嘲笑の要素が含まれているに違いないのだ。
その観察対象になるのは耐えられない。今日こんな人がいたよ。くたくたのTシャツを着ていて…なんて若人友達に語り継がれたとしたら私の心はどうなるのだ。もしもそれをたまたま耳にしたらどうなるのだ。ガラスの心臓とは言わない。むしろ何も考えていないのだろうと良く言われる私だが、そんな自分への誹謗中傷を直接耳にしたら、耳まで真っ赤になって自らハトの餌になりに行く事しか出来ないではないか。
それなのに今くたくたのTシャツを着ている自分はどうなのだ。こんな事を考えるなら、なぜちゃんと服を買わないのだ。
私は現在30歳前後だが、27歳前後まで母が選んだ服を着ていたのだ。私は母を尊敬していた。感性豊かなビオラの奏者であったからだ。しかし27歳前後の時、髭を蓄えたロシア人サクソフォン奏者に見初められ、再婚してロシアに行ってしまったのだ。なので自分で服を選ぶしか無くなった。
私は感性豊かな母の血を継いでいるため、自分も感性豊かだと思い、仕立ての良い服を選ぼうと勇み足でファッションリーダーしもむらへ向かった。
そこでわかったのだ。「わからない」
何をどうして良いのかわからないのだ。
何色がいいのか、どんな形が好きなのか、または似合うのかさっぱりわからない。
私は参ったため、しもむら店員の小柄なお姉さんを呼んだ。大柄な男性店員もいてどちらかというと暇そうだったのだが、陳列作業をしている小柄なお姉さんを呼んだ。するとしもむらの中では高めなジャケットを勧められ、そのまま買って帰ってしまった。
家に帰って空けてみたのは良いのだが、どれをどう合わせれば良いのかさっぱりわからなく、こんな事なら全身しもむらの女性店員に勧めてもらえば良かった、いや、それはなんだかいかにも感性の無さを露呈しているようで恥ずかしいではないか。と思い、服を買う事を止めたのである。
だけど家に母の服があるだろう、とお思いか?
昔母が選んでくれていた服は全て売却した。
感性が豊かだと思っていたので芸術で食おうとして働いていた会社を辞めて道端で絵を書いていたら一枚も売れなかった上に貯金が全て無くなったのだ。一枚も売れなかった事も感性の無さを表しているだろう。
さておき話は戻るが、どこまで戻ればいいのだ? 鮮魚を見つめる眼差しで女性の視線を集める件まで戻ろう。とはいえこちらだって誰でも良いわけではない。髪の毛がパンチパーマの女性よりは、サラサラストレートの若い女性の方が良いわけだ。そのような女性に料理の出来る男性だと意識され、頻繁に通う事により、意思疎通を図りたい。もっと言えば告白されたいのだ。
しかし一回断りたいのだ。自分には長年大事に思っている今は傍に居ない優しくて美しい女性の影があるのだと思わせたいのだ。もちろんそんな心当たりは無い。だが思われたいのだ。それでも何度もアタックして欲しいのだ。時には気持ちを綴ったラブレターも貰いたいのだ。そして3年位思われ続けて、その女性の熱意に打たれたといった形で付き合って、ぎこちなく手を握ったり、アイスクリームを伝って間接キッスをしたりしたいのだ。
そのような女性が鮮魚コーナーに現れないかと今か今かと待っていると、体が冷え切っている事に気づいた。
手先に温度が無い。
まだ見ぬ清楚な女性をやはり見る事なく、私は立ち去る事を余儀なくされた。
何も買わなかった。
長いこと居座った為、お腹が空いている事に気づいた。しかし冷蔵庫には何も無い。私は友人の内藤宅に向かう事にした。
内藤宅は程近い。家からスーパーまで徒歩7分、スーパーから内藤宅まで更に3分といった感じだ。てくてく歩き、内藤宅にたどり着く。
するとしばらく出かけますといった張り紙がなされていた。飲食店でも商店でも無いのに、何故、誰に向けてこんな張り紙をしているのだ? 無言で考えていると、中からゲームをプレイする音と共に、内藤の「あっ…クソ!むずいなー」というくつろいでゲームをしている声が聞こえてくる。
…いるではないか。私はドアをノックした。
一瞬中がシーンとなり、抑え目に近づいてくる足音がドアの向こうで止まった。そしてまたソーっと部屋の内部に戻る音と共に、ゲームを消す音が聞こえた。
これは、バレバレな居留守ではないか。
私は何故友達である私が居留守をされなければならないのか疑問に思い、内藤をおびき寄せる為、演技を始めた。
「…あれ? あれって堀 キマキでは? そうだ、間違いない! スーパーの方へ堀 キマキが向かっていったぞ!」
堀 キマキとは内藤の大好きな目のパッチリした自称宇宙系アイドルだ。私は大きめな声で叫んだ。
すると部屋の中から地割れの如く「ドドドドド」という音と共に、猛ダッシュで内藤が出てきた。
そして私を見て、「キマキマは!?」と言った。
私は「キマキさんはタクシーに乗ってどこかに行ってしまったよ。それより内藤、この張り紙はなんだい?」と言った。
内藤はあからさまに不愉快そうな顔をし、「お前が毎日食料をあさりに来るのが迷惑でこの張り紙をしたんだよ」と言った。
私は予想外の答えにビックリし、「え!? 毎日は来ていない! 週3回程度だ! 毎日来ていると思われたくないから、一日置きにするように気をつけていたんだ!」と反論した。
内藤はますます不機嫌な顔をし、先ほどのスーパーで売っていたドライマンゴーの袋を私の顔面に投げつけると、ドアをバタリと閉め、そのまま出てくる事は無かった。
このドライマンゴーというのはどうだ?最近時々見かけるが、味の想像がつかない。食べたらすごく変な味かもしれない。
しかし空腹には勝てない。食べよう。
このお洒落な食べ物をパクリと食べながら帰宅していたら、近所のスカートの似合うロングヘアーの女性がこちらを意識する可能性がある、と考えながら、私は6畳一間のアパートへ帰っていった。
おわり